8. ちなみに私は「隠れ文系」でした
キリスト教神学からサイエンスが生まれる契機になった理神論という考え方があります。ここでは、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典から引用しましょう。「啓蒙時代のヨーロッパに栄えた宗教思想。自然神論,自然宗教ともいう。神は世界を超越する創造主であるが,神の活動性は世界の創造に限定されているのであって,創造されたあとの世界は,あたかもねじを巻かれた時計のごとく,神によって定められた自然法則に従い,その働きを続けるとするもの。創造されたのちの世界の自己展開には,もはや神は干渉しないところから,超自然的な啓示,特に奇跡などを排す。これは歴史的には宗教の合理化,世俗化,人間化の過程に現れた合理主義的・自然主義的有神論といえる。 17世紀なかばから 18世紀にまずイギリスの自由思想家,科学者たちによって唱えられ」た思想です。
イカ男は最近フィリピンに行って、未だ手つかずに近い、多様で変化に溢れた自然を目の当たりにして、どうしたらこのような自然に普遍的な法則が存在することを確信できるのだろうかと自問自答しました。いまの日本の風土もフィリピンほどにないにしろ自然の変化は多様で、法則性を実感できるのは天体の動きくらいしかないように思えます。しかも、普遍的な自然法則を想定できるような思想的な契機が東アジア、少なくとも日本の歴史では起こりませんでした。一方、ヨーロッパでは上記のように、キリスト教神学から派生した理神論によって、神が定めたものとしての自然法則が「存在する」ようになったのです。だから、安心して普遍的な法則を追求することができました。もしこのような確信がなかったら、人生をかけて法則を追い求めることなど怖くてできそうにありません。年老いて、実はそんなものはもともとなかったと知ったら、取り返しがつかないですよね。研究者なら誰もが想像する恐ろしい事態です。
しかし実際は、日本でも明治以降、数多くの優れた科学者があらわれ、なかにはノーベル賞を受賞するような重要な発見をした方もいます。では、一体ぜんたい彼ら科学者はなにをもって科学法則の存在を信じていたのでしょう。1人ひとりに訊いてみないと分からないですが、もし、文明が進んだ英米のすごく「頭のいい人」たちが言っているから、存在するにちがいないと判断したのであれば、残念なことです。結局、サイエンスの表面的なまねごとをしたにすぎないからです。
理神論じたいは知らなくてもいいのですが、サイエンスがキリスト教神学に由来することさえ知らない研究者が日本には多いようです。つまり、なぜサイエンスが可能なのかを考えたことがない研究者が多いということです。研究者がまったく無自覚にサイエンスの考え方をもって自然を研究していたとしたら、深刻な問題点に気づかないまま、観念的で抽象的な科学理論(仮説)を絶対視し、一般に広めてしまう恐れがあります。この点については、以前ブログでお話ししました。
日本でこのような事態がおこっている理由のひとつは、高等教育の過程で進路が「文系」と「理系」に分かれてしまうことだとイカ男は考えています。理系の研究者こそサイエンスの成立ちについて理解していなければならないのに、西洋史や宗教学に興味をもつのはほぼ文系のヒトなので、それを知っているのはひっきょう文系出身者が多くなります。よって、文系の研究者は理系の研究者を、あいつらの考えは単純すぎる、と批判し、逆に理系研究者は文系研究者を、数学ができないくせに、と悪態をつくことになります。それに、そもそも文系と理系は、好き嫌いや総合的な適性で選んだのではなく、事実上数学ができるかできないかで分けられる感があります。とすると、高校までの数学の点数がその後に受ける教育と、さらには人生の大部分を決めてしまうことになりかねません。確かに数学はかなりの部分が生得的な能力に依存し、特に優秀な子どもはギフテッドと呼ばれたりします。ギフテッドは一般にIQ(知能指数)も高いそうです。よって、生徒を数学の点数で分類するのは一見合理的です。しかし、実は数学をサイエンスに含むかどうかは微妙なところです。数学は「数や量、図形などに関する学問」であり、サイエンス(自然科学)の研究方法を支えるものではありますが、対象は自然物ではありません。極めて観念的で抽象的な何かです。それらは、いい方は適当でないかもしれませんが、一定の手続きさえ踏めば、人間の都合でいくらでも創造、拡張、変更が可能な概念です。しかし、ネイチャー(自然)は違います。それは我々に先立ってすでに存在している具体的な何かであり、さらに我々もそれらによって存在が可能になっている何かです。よって、サイエンスと数学ではアプローチの方法が大きく異なることを理解する必要があります。
数学が得意な研究者であれば、自然から数学的に抽象した何かをミクロに解体、分析し、モデル化することはできますが、逆にいえば、複雑な系としての自然をまるごと受け入れているわけではありません。しかし、これからは自然をマクロにとらえる立場が極めて重要になると思います。歴史学や経済学ではすでにそのような傾向がみえています。ビッグヒストリーやMMT(現代貨幣理論)と呼ばれる分野や理論がそれです。おそらく、我々は歴史の大きな分岐点に来ているのでしょう。
興味深いコラムが沢山で楽しく拝読させていただきます!
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