16. その正しさは正しいですか?
イカ男はすっかりカントに魅了されてしまい、『純粋理性批判』の次は『実践理性批判』に挑むことにしました。この本の結語の有名な一節を知っている方も多いでしょう。
「ふたつのものがあって、それをめぐり繰りかえし思ひをよせて、長く思いをはせるほどに、こころがそのたびあらたな、いや増しになる讃嘆と畏敬によって満たされてしまう。私の頭上にある星々をちりばめた天空と、私のうちにある道徳法則とがそれである。」
果てしなく広がる星空と、自分の胸の内にある道徳法則を並べて語るこの表現は、読んでいるだけで背筋が伸びるような気持ちにさせてくれます。理性を誇りに思う近代人の喜びと自信が、ここには確かに宿っています。では、カントがそこまで誇りに思った道徳法則とは何でしょうか。『道徳形而上学の基礎づけ』には、有名なこの一文があります。
「君の行為の格率が君の意思を通じて普遍的な法則になるかのように、行為せよ。」
簡単に言えば、自分の行動ルールが社会全体のルールになっても困らないか、ちゃんと考えてから行動しなさい、ということです。言葉だけ見れば、非常にまっとうで正論に思えます。しかし、これを現実世界の中で本気で考えはじめると、途端に難しくなるのです。なぜなら、人間はそれぞれ違い、耐えられることも、譲れないことも、人によってまるで違うからです。
たとえばイカ男はタバコの匂いが苦手なので、禁煙を社会の共通ルールにしてほしいと感じる瞬間があります。しかし喫煙者の立場なら、以前のようにどこでも吸えたほうが自然だ、と思うでしょう。いまのイカ男には強制力はありませんから、我慢したり、場所を変えたりしてやり過ごします。でも、もしも権力を持っていたらどうでしょう。禁煙ルールは普遍化しても誰も困らない、むしろ社会のためだ、と信じて、法律にしてしまう可能性だってあるわけです。
つまり、どんな道徳を、どれだけの力で普遍化するのかという問題は、想像以上に繊細で厄介なのです。ここが、カント倫理学が熱烈に支持される一方で、強い反発も招いてきた理由の一つだと思います。この問題について、評論家の浜崎洋介氏は、カントとフランス革命の関係に触れながら、非常に示唆的な説明をしています。
『純粋理性批判』と、『実践理性批判』を刊行していたカントは、そのなかで、経験(現象)を超えたものとしての「神」が、実は、私たちの「理性」が生み出したものであることを、その体系化した認識論のなかに示していました。しかし、だとすれば、それは読みようによっては、人間の「理性」は「神」よりも大きいのだという結論を導きかねません。実際、カントの影響下に始まったドイツ観念論(フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)や、ドイツ・ロマン派(F・シュレーゲル、ノヴァーリス)の営みは、神のごときに人間の「絶対的自我」(フィヒテ)や「絶対知」(ヘーゲル)を追究する運動として現れてくることになります。「理性」によって「神」から解き放たれた人間は、それゆえに自由の高揚感に満たされることになります(喜びの初期ロマン主義)。が、その一方で、「神」の支えを失くしてしまった人間は、その不安感に苛まされることにもなります(絶望の後期ロマン主義)。そして、この不安感を乗り越えるために呼び出されるもの、それが、「理性」によって編み出されたユートピアの観念でした(啓蒙合理主義)。要するに、「理性」によって自由になった人間は、その自由によって不安になり、さらにはその不安から逃れるために、ここではないどこかの「理念」にすがり付き、ついには、その「理念」による現実世界の変革を、つまりは〈不安なきユートピア〉の設計を夢見はじめることになる……、これが、国王の首を斬ったロベスピエールと、神の首を斬ったカントを貫く近代的な「自己」の運命であり、さらには、そこから現れるロマン主義(自由と不安の二重性)と、啓蒙合理主義(不安の社会的克服)とを繋ぐ必然の糸でした。
要するに、カントは、神が与えた秩序よりも人間の理性を高い位置に置いた人物であり、その結果、人間は神から“自由”になりました。しかし同時に、神の支えを失った人間は不安にも直面することになります。そこで登場したのが、理性で作られたユートピアという観念でした。理性によって世界を設計し直し、理想社会をつくろうとする発想です。これは確かに近代思想における大きな魅力ですが、同時に危うさもはらんでいます。
問題は、こうした思想が単なる机上の議論に留まらず、やがて現実社会の動きとつながっていったことです。理性に基づく普遍的道徳という理念は崇高ですが、いつしかそれは、理性をきちんと理解できる者=知識人や専門家こそが社会を導くべきだ、というエリート主義と結びつきました。そして、理性に基づく正しさと主張される価値観が唯一のものとして扱われ、伝統や生活に根ざした常識や歴史的経験が、非合理な遅れているものと切り捨てられていく流れが生まれてしまいます。
その延長線上に見えてくるのが、行き過ぎたリベラル思想です。理性の名の下に描かれた理想社会の設計図が少数のアカデミック・エリートによって提示され、それに合わない価値観や文化、さらには国民国家までもが、乗り越えるべき古いものと扱われてしまう。庶民の現実的な不安や生活感覚は未熟のものと片づけられ、理性の名を借りた“新しい正しさ”が上から押しつけられる――そんな構図が見えてきます。
もちろん、カント本人を一刀両断することはできません。彼は、近代人がどう生きるべきかを真剣に考え抜いた、偉大な思想家です。ただ、その純粋で峻厳な道徳理論が歴史の中で展開される過程で、理性という理念が現実社会を見下ろす位置にまで高められ、結果として現実から浮き上がった観念的理想へと変質してしまった――そこには、近代思想の光と影の両方が刻まれているように思えてなりません。
- 『実践理性批判――倫理の形而上学の基礎づけ』 イマニュエル・カント (著)、熊野純彦 (翻訳) 株式会社白水社 2013
- 『道徳形而上学の基礎づけ』 カント (著)、大橋 容一郎 (翻訳) 文庫 株式会社岩波書店 2024

