25. 働いて・・・働いて
先日、日本経済新聞(令和7年12月26日付け)が2026年度予算案について報じました。一般会計は122兆3092億円で、そのうち医療や介護などの社会保障関係費が39兆559億円、国債費が31兆2758億円。国債費のうち、利払い費は13兆435億円なので、国債償還費は18兆2323億円になる計算です。しかし、日本以外の欧米諸国では、国債費として計上するのは利払いのみ。元本返済は借換え(リファイナンス)扱いで、歳出に入れません。形式上の手続きはありますが、実質的には“返済していない”のと同じです。
しかし、日本は違います。日本には財務省の会計基準として60年償還ルールがあります。これは、国債は60年間で帳簿上償却するという会計上の建前です。ただしこれは、現金で毎年返済して残高をゼロにするという意味ではありません。借換えを前提にした記帳ルールにすぎず、実務的には欧米とほぼ同じ運用なのです。したがって、見かけ上、国債費が巨大に見えますが、その多くは会計上の儀式に近い部分というのが実態です。
なので、歳入のうち新規国債で賄われるのは29兆5840億円となっていますが、実際に国債で賄われるべき金額は償還費を除いた11兆円程度になります。歳入のうち税収とその他の収入の合計が92兆7252億円であることから、新規発行国債費の割合は事実上1割程度ということになります。この割合の多寡には賛否両論あるとは思いますが、民間投資がまだ活発ではない現状ではむしろ低いくらいのような気がします。
それでも毎年、野党からは税金の無駄使いとか、財源がないとか、国債依存が危険だ、という批判が必ず出てきます。今回は与党内部からすら同様の声が出ているようです。しかし、これらは必ずしも経済合理性からの批判ではなく、単なる政治的ポジション・トークである場合も少なくありません。予算編成権は内閣にあり、与党が強い影響力を持ちます。予算編成権を選挙対策に用いられたら、野党はどうしようもありません。なので、その抵抗としての財政批判は政治的に意味があるかもしれません。しかし、あいまいな財源論を根拠に、批判のための批判に国民が振り回されるのは不毛です。
イカ男は、税は財源ではないという立場です。なので、税金が無駄になることはないのですが、無駄になるとすれば、それはお金ではなく、人手や資材、エネルギーという現実の資源です。つまり、どの事業に、どれだけの資源を振り向けるかを考えることが大切です。予算に書かれている数字は金の量ではなく、通貨という単なる数値データであって、それはマンパワーと物理的資源の配分を示すもの。たとえば昨年、建設資源を万博工事に回すか、能登半島地震の復興に回すかという問題が議論されました。労働力も資材も有限なので、本当に必要な分野へ優先的に配分しなければなりません。それを数値化して、計画し、実践するのが予算作成と執行というわけです。
財源が足りないからダメ、という単純な緊縮論では、経済成長の芽を摘み、国民生活への投資を妨げ、国家の安全保障すら損ないます。しかし一方で、選挙対策のために過剰に予算を膨張させれば、資源量を超えた事業が発注され、未完のまま放置されることになるでしょう。そのような中途半端な事業が国民の生産活動に貢献することはなく、発行された通貨がダブつき、場合によってはインフレを起こしかねません。つまり、税は財源ではないから、いくらでも予算額を増やしてもいい、ということにはならないのです。
2026年度日本が本当に必要としているのは、生産力を育て、安心できる社会基盤を整え、将来の危機に備える、そんな 実質的な資源配分としての予算です。年明けの国会審議から3月末の予算成立まで目が離せませんね。そして最後に――国会議員には労働基準法は適用されません。ならば、しっかり頭を使って働いていただかねば困ります。働いて、働いて、働いて、働いて、働いてください。

