3. イカ男、イカを飼う
いったん話を先に進めます。研究を始めて数年後、イカ男はケンサキイカの移動経路推定に関する論文をある学術誌に投稿しました。一般的に、投稿された論文はその研究分野に詳しい研究者からの査読を受け、彼らの納得を得て初めて掲載可能になります。さて、イカ男の論文は、査読者からの数多くのコメントにさらされて戻ってきました。しかも、その一つがとても厳しかった。Sr/Ca比とイカの経験水温には、本当に負の相関(Sr/Ca比の増加は経験水温の低下を意味する)があるのか、飼育試験で証明されているのか? イカ男は、はぁ、となりました。Sr/Ca比と経験水温に負の相関があるのは常識ではないの!? すでにいろいろな論文に書いてあるじゃない! 投稿した論文でもちゃんと引用していますよね。イカ男は改めてインターネットで室内飼育の研究結果がないか必死で探してみました。ありません。このまま査読者からのコメントに否定的な答えを返すと、速攻、リジェクト(不受理)される可能性があります。イカ男は、室内飼育試験をするから半年待ってくれとメールして、早速、活イカを手配しました。
エアコンを効かせた飼育棟に1トン円形水槽を何個も運び入れ、水温管理をしながらケンサキイカを飼育しました。ケンサキイカのようなツツイカの仲間を飼育するのは非常に困難です。皆さんは水族館でイカを見たことがありますか? コウイカや小さいアオリイカを除いてほとんどないと思います。よほど大きな水槽を使わない限り、長期間の飼育は今のところほぼ不可能なのです。イカ男の場合も長くて7日間くらいでした。写真の水槽に様々な色のテープが貼られているのは、壁面にぶつかって傷つかないよう、イカに壁を認識させるためのものでしたが、効果があったかどうかは疑問です。
死んだケンサキイカから平衡石を取り出し、きれいに研磨してから先端部を顕微鏡で観察しました。特殊な光で写真を撮ると、縁辺のやや内側に赤く光る帯が見えます。これは飼育を開始する直前、平衡石の縁辺部をマークイングするため染色した海水にイカを泳がせておいたからです。つまり、平衡石のうち、赤い帯から縁辺部までは飼育期間中に成長した部分ということになります。イカ男は、帯の内側から先端部に向けて線状にSr/Ca比を調べ、飼育水温との関係を確かめました。
この結果を加えて再度投稿したところ、わずか数日でアクセプト(受理)の連絡が届きました。飼育したイカの数が少なくて不安だったのですが、編集者はイカの飼育が難しいことをよく理解していたようです。おそらく、これまでも海外で多くの研究者が挑戦して、失敗してきたのではないかと思います。イカ男の勝因は、まちがいなく「地の利」でした。世界一優れた技術をもつイカ釣り漁師が釣ったイカを、これまた世界一優れた活魚車をもつ輸送業者が最高のコンディションで搬入してくれた結果です。いくら設備のいい飼育環境があっても、運ばれたイカのコンディションに勝るものはありません。実際、飼育したイカはあまり餌を食べてくれなかったのですが、平衡石はしっかり成長していました。これでようやく、平衡石を用いた研究方法が確立したのです。
- Yamaguchi T, Kawakami Y, Matsuyama M. Migratory routes of the swordtip squid Uroteuthis edulis inferred from statolith analysis. Aquatic Biology, 24, 53–60, 2015. https://doi.org/10.3354/ab00635