7. 理念 vs. 現実

以前もお話ししたようにサイエンス(自然科学)はほぼ全て仮説から成り立っています。つまり、頭のなかで考えたいわば理念の集まりなのです。しかし、驚いたことに、その理念が現実の世界で役にたっています。頭のなかの出来事と現実世界の出来事がつながっているのですね。アインシュタインが「世界について最も理解ができないことは、世界を理解できるということだ」と言ったのもうなずけます。

 

ところで、科学者の才能のひとつは、世界が理解可能であると心の底から信じられることだ、とイカ男は考えます。発見や発明は容易にできるものではなく、これまで積み残されてきた謎がすんなりと解けるなどということはありません。多くの人は途中で諦めてしまいます。特に日本文化は、諸行無常とか八百万の神々とか、あまりに多様で変化の激しい自然環境で培われてきたため、我々日本人は最後の最後まで究極の「真理」を求める気持ちになりにくいのではないかと思います。

 

閑話休題。元々、サイエンスはキリスト教神学から派生した思考様式です。聖書によると、この世は神によって創造されました。当時の人々は、神がなにかしらの設計図に基づいてこの世界を造ったと考えたのです。しかし、キリスト教の力が弱まり、神の存在が疑問視されると、多くの人々は不安を感じ、神の代わりに「科学的真理」を想定せざるを得なくなりました。つまり、自然界を説明するサイエンスは、彼らにとって神に代わるほど重要なものだったのです。

 

サイエンスが自然の在り様をそれなりにうまく説明できるようになると、理性による思考の普遍性と不変性が強く支持されるようになり、同じ思考方法が現実社会の在り方にも適用されるようになます。啓蒙思想です。特に有名なのが、フランスのモンテスキューやルソーの思想。彼らの思想は単なる理念だけにはとどまらず、「○○であるべき」という主義に変容し(啓蒙主義)、フランス革命につながります。フランス革命については、「自由・平等・友愛」という今日われわれが享受している自由で民主的な社会の礎となる考えを創出しました。しかし一方で、ナポレオン戦争を含めると約490万人の犠牲者をだすなど負の側面もありました。同様に、マルクスなどによる共産主義や社会主義も膨大な犠牲を生みつつ現在に至っています。理念な世界を絶対化し、そこに至るまっとうな手続きを無視して突っ走った結果でした。まさに、現実世界そのものを実験場にしてしまったのですね。

 

ナイーブだったサイエンス(自然科学)も20世紀にはいると、テクノロジー(工業技術)と結びついて、理念の世界から現実の世界へ降りてくることになります。きっかけは第一次世界大戦でした。ヨーロッパの国々は存亡をかけた総力戦において、爆薬や毒ガス、航空機、戦車などの殺戮兵器を改良・開発し、大量の戦死者をだしました。さらに第二次世界大戦ではミサイルや核兵器などが生み出されました。これらはいったん世に出てしまうと、容易に回収することができません。ウイルス兵器が故意であれ過失であれ、いったん外にでてしまうと、パンデミックを起こさずに済まないのと同様です。

 

自然科学であれ、社会科学(法学、経済学、政治学、社会学など)であれ、理念の世界でうまれた理想像を現実世界に降ろそうとするときには、よほど注意深く漸進的でなければなりません。現実世界はリセットできない、不可逆なものだからです。このような態度を一般に保守と呼びます。理念の世界では革新的であってもよいのですが(少なくともアカデミックの世界では革新性が不可欠です)、それを現実の世界に移す際にはできるだけ保守的であることが必要だとイカ男は考えます。そうでなければ、科学そのものが否定されかねないからです。

 

  • Ruth Sivard (1991,1996)World Military and Social Expenditures

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