1.「客観的」の罠

イカ男が推定したケンサキイカの移動経路は、関係者の間ではすこぶる評判が悪く、でたらめだーとか、ありえないーとか、けっこう厳しい批判を浴びて、挙句の果てには、客観的なデータを根拠にしてまともな議論をすべき、というお叱りも受けました。イカ男としては、否定的な意見が多いのはむしろ大歓迎で、大発見の可能性が高いとひそかに喜んでいるところですが、ただ、彼らの話を聞くと、「客観的なデータ」から正しい移動経路が浮かび上がってくるのを待っているかような印象を受けて、がっかりした記憶があります。

そもそも数字をどんなに睨んだところで数字は数字ですし、しかも、その数字が客観的であることと、その数字が何かしらの「真実」をそのまま表現していることとは直接関係しません。「客観的」であるとは、その数字を他人とシェアできるという意味に過ぎず、〈真〉の意味は含みません。これは、「客観的」の反対語である「主観的」の意味を考えれば分かります。

これがあるから、生きていけるね

たとえば、イカ男がある夏の暑い日に冷えたビールを飲んで感じた爽快さは、他人に伝えることができません。どんなに言葉を尽くしても伝えることができないのは、イカ男に文才がないからではなく、「主観的」であるがゆえに原理的に不可能なのです。まったく同じ条件でビールを飲んだとしても、経験する味わいは一人ひとり違って当然で、むしろ、個人的には「主観的」な経験の方が〈真〉に近い(≒誤りがない)のです。一方、「客観的な数字」は、あるルールに基づいて計測または計算されたものであれば、とりあえず他人とシェアすることはできますが、将来誤りが発覚する可能性を完全に排除することはできません。

大量の、しかも正確なデータがあったとしても、サンプリングの範囲が限定されていたとしたら、そこから導き出される仮説はとても脆弱なものになります。仮にそのデータセットからの推論が合理的であったとしてもです。ちょうど、目の見えない人がそれぞれ象の体の一部を触って、象の全体を思い浮かべるのと同じです。尻尾を触っただけで「ヘビ」と間違えないためには、とりあえずできりだけ多くの場所を触ってみる必要があります。つまり、優れた仮説は、複数の視点から得られたデータセットを使って組み立てられるのです。ただし、データを集めるにはコストがかかりますから、1つの視点から得られるデータ数は減ることになります。しかしそれでも、最初の仮説は視点の数を優先すべきだとイカ男は考えます。ぼんやりとでも、全体が見えた方が絶対にいいです。

ケンサキイカの分布図(FAO)

イカ男はケンサキイカの移動経路を推定するとき、日本だけでなく台湾やフィリピン、ベトナム、タイ、インドネシア、オーストラリア周辺に生息するケンサキイカの情報を調べ、サンプリングも唐津沖だけではなく、山陰沖や相模湾、しかも季節ごとに行って、それぞれの平衡石のSr/Ca比を測定してから、ケンサキイカの生態や生息している海洋環境などを考慮のうえ、個別の海域への季節ごとの移動について、可能な限り矛盾のない仮説を立てました。イカ男は自分の仮説が〈真〉だとは思っていませんが、かなりいい線までいっているのではないかと自負しています。

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