8. 「精子バンク」で保険をかける

春にとれるメスのケンサキイカは、オスとは違って、特に大きくなることはありません。成熟をいったん開始したメスは、たとえ水温が低下しても成熟の状態を維持し、生殖腺重量指数は変化していませんでした(Yamaguchi et al. 2020)。それどころか、春の個体の卵はほかの季節の卵よりも大きいことがこれまでの研究で分かっています(Pang et al. 2020)。水温が15℃より低くなると、ふ化率が大きく低下することは前回お話ししましたが、15℃以上であっても水温が低くなればなるほど、発生には長い日数を要します。そうすると、卵はその日数を耐えるだけの栄養をあらかじめ持っている必要があります。メスのイカは、低水温のために日数が余計にかかってもいいように、たくさん栄養の入った卵を準備しているのではないでしょうか。このようにメスは、いったん成熟を始めると、産卵に向けて一直線という感じです。実際、その時期が来ると、メスはどこであっても、たとえ室内水槽であっても、産卵行動を始めます。

ケンサキイカの卵巣発達(Nは測定個数、rは相関係数、Yamaguchi et al. 2020)

ところが、オスは、水温が低下すると食い気が勝る、と前回お話ししました。食べてばかりですっかり「やる気」なくしたオスばかりだったら、精子の受け渡しはいったいどうなるのでしょうか。もちろん、受精しなかった卵は発生しません。実は、まわりにまったくオスがいなかったとしても、精子を調達できる可能性があるのです。

新鮮なケンサキイカをよく観察すると、口のまわりに白い糸くずのようなものがくっ付いていることがあります。これは精莢といって、精子の入ったカプセルです。成熟したオスがあらかじめメスに渡しておいたのです。おそらく移動中の群れのなかで、相手かまわず渡したのでしょう、まだ成熟していないメスでも、なかにオスであっても精莢を付けられている個体があります。通常は、産卵行動を始めたとき、近くに複数のオスがいて、有力なオスが優先的に精莢を渡して受精させるのですが、万が一相手がいなかった場合には、口のまわりに付いた精莢を使うのです。まさに「精子バンク」ですね。

ケンサキイカの精莢唐津市HPから

春の対馬海峡は水温が低いため、このような「精子バンク」のシステムは役に立ちそうですが、このようなコストがかかる行為は一般的にペイするのでしょうか。実は、ケンサキイカだけでなく、この種のイカは湧昇流の発生が産卵行動の引き金になるといわれています(Downey et al. 2010)。湧昇流は、海底から湧き上がってくる栄養に富んだ水塊で、水温が低いのが特徴です。湧昇流が起こった時に産卵する理由について、イカ男ははっきり分かりませんが、湧昇流が生じると、その後、植物プランクトンや動物プランクトンが増殖し、ふ化した稚イカの食べ物が豊富になるからかもしれません。また、ケンサキイカの仲間の卵塊はとても密に大量に産み付けられるので、まわりの海水に溶けている酸素が不足する可能性があります。イカ類にとって発生時の酸欠は、視覚に障害をもたらすことが分かっています(Mccormick et al. 2022)。イカにとって視力の良さは最大の武器ですから、これは大問題です。湧昇流によって流れが起こったら、酸欠も起きずにすみます。ところが逆に、冷たい海水にさらされたら発生も遅れますし、オスの「やる気」にも影響があるかもしれません。このあたりの議論はとても微妙なのですが、おそらくケンサキイカに限らず、あらゆる野生生物はすべてに完璧な環境を望むことはできず、トレードオフが絡む条件のなかで、よりましな選択をせざるを得ないのでしょう。このような様々な事情があって、精莢をあらかじめ渡して保険をかけておく戦術を進化させたのではないか、とイカ男は考えます。

湧昇流Upwelled waterが産卵行動の引き金を引くSPAWNING TRIGGERED!(Downey et al. 2010)
  • Yamaguchi T, Takayama K, Hirose N, MatsuyamaM. Relationship between empirical water temperature and spring characteristics of swordtip squid (Uroteuthis edulis) caught in the eastern Tsushima Strait. Marine Biology Research, 16, 93−102, 2020.
  • Pang Y, Chen CS, Iwata Y. Variations in female swordtip squid Uroteuthis edulis life history traits between southern Japan and northern Taiwan (Northwestern Pacific). Fisheries Science, 86, 1005–1017,2020.
  • Downey NJ, Roberts MJ, Baird D. An investigation of the spawning behaviour of the chokka squid Loligo reynaudii and the potential effects of temperature using acoustic telemetry. ICES Journal of Marine Science, 67, 231–243, 2010.
  • Mccormick LR, Levin LA, Oesch NW. Reduced Oxygen Impairs Photobehavior in Marine Invertebrate Larvae. The Biological Bulletin, 243, 2, 2022.

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