13. 渡るに渡れぬ対馬海峡
もう10年近くも前の事ですが、ケンサキイカの移動を研究するにあたって、イカ男は粒子追跡実験(コンピュータシミュレーション)を用いました。イカは単なる物体ではないということで、当時はかなり批判もありましたが、現在では多数の論文が水産庁の資源評価報告書にも引用されていて、おおむね受け入れられています。直観的にはイカは魚と異なり、水平方向の遊泳力が弱く、一定方向に泳ぐ能力(例えば産卵場への回帰)があるとは思えないので、すべてのイカ類に応用可能なはずなのですが、スルメイカは対馬海峡を南下しながら産卵するという事実があり、そのためにスルメイカには手を出すことができませんでした。
ところが、4年前にある研究に関する報告を読んで、スルメイカの移動も粒子追跡実験を使えるのではないかと思いました。それは、『弥生時代の対馬海峡渡海ルート』と題する研究です。著者は九州大学の尹名誉教授と広瀬教授、宮本博士。尹名誉教授は韓国と日本の歴史的なつながりについて大変ご興味があったらしく、古代の手漕ぎ船がどうやって韓国から九州へ渡ったのかを研究されたのでした。現在対馬海峡には北東方向への平均流があり、特に西水道(朝鮮半島と対馬の間)には平均1ノット程度の強い流れがあります。ここを人力で安全に渡りきるにはどうすればいいか、そのルートを探そうという話です。実は、日平均すると北東流が卓越していますが、時間ごとに流れをみていくと、ある時間帯には南西方向への流れが発生しています(下図)。これは潮汐による現象です。九州大学応用力学研究所の日本近海海況予報システム(DREAMS)の詳細な流速データを用いて分析したところ、低低潮から高高潮の上げ潮時にはほとんどの場合南西流が出現し、特に12月から2月に強い南西流が出現したそうです。しかも、その時間帯は夜間でした。
これを読んだ時、イカ男にはアイデアがピカ―っと閃きました。イカ類は日周鉛直移動をおこない、昼間は水深の深いところにいます。対馬海峡は大陸棚の一部なので水深が浅く、しかも秋から冬は鉛直混合によって海底まで均一に近い水温分布になっています。とすれば、スルメイカは昼間海底に定位できます。つまり、南西流が出現する時間帯とスルメイカが索餌する時間帯が同期すれば、その個体は特に何もせずに(食っては寝、食っては寝をくりかえすだけで)対馬海峡を南下できるはずです。
夜間のある時間帯だけに限って粒子追跡実験をおこなったところ、確かに粒子の一部は対馬海峡の西水道から東水道へと移動し、さらに五島列島の南まで動きました。しかし、この時間帯だけ索餌をとるために浮上している個体が実際にどれほどいるのか分かりません。現場でそれを確かめるのはとても難しいことです。また、粒子の移動する海域が狭いのも気になります。なので、イカは四方にランダムに動き回っていて、その動きにある程度の方向性を与えているのが南西流だとすれば、粒子追跡実験の結果以上にスルメイカが対馬海峡や東シナ海に広がっていることは説明できそうです。
しかし、気になる事象をお伝えしなければなりません。近年は南下する粒子が減少しているのです。まだ実験不足なので、決定的なことは言えないのですが、対馬暖流の勢力が強くなっていることが原因かもしれません。つまり、南西流は潮汐によって出現するので、その要因は太陽と地球、月との位置関係と地形であって、短期的に大きく変化することは考えられないのですが、北東流は黒潮から日本海に流れ込む流量で決まります。なので、後者が増加すれば、前者はキャンセルされてしまいます。実験結果では、南下にいたる前段階の、西水道から東水道へ渡る粒子数も激減しています。以前ブログで、スルメイカの産卵海域が西に移動したのではないかと書きましたが、その原因を示唆する事象かもしれません。もしこの因果関係が本当であれば、この先、南西流は出現しなくなり、スルメイカはもはや対馬海峡を渡れなくなってしまうかもしれません。
- 尹宗煥、広瀬直毅、宮本真由美(2015) 『弥生時代の対馬海峡渡海ルート』、 「東アジア縁辺海の海洋環境研究」九州大学東アジア環境研究機構RIEAE叢書Ⅳ、32-64、有限会社花書院、福岡