18. ベトナムでスルメイカ⁉
ウィキペディア(Wikipedia)で「スルメイカ」を検索すると、近年の分布域は「ベトナムにも及び、今は多数が生息している」とあります。たしかに、『新編 世界イカ図鑑 ウェブ版』には「最南端の記録はホンコン」とあり、ベトナムで見つかっても不思議ではありません。でも、多数となると、話は違います。どのくらい多いのか? 漁獲対象となるほど多いのか? そこで、海外のイカ事情に詳しいS博士に訊いたところ、近年ベトナムのイカ漁獲量が急に増えている。少し前までは(おそらく過剰漁獲により)ヤリイカ類の資源量が減少したはずだから、不思議に思っていた、ということでした。やはり、ベトナム沖の南シナ海にもスルメイカが多数生息して、漁獲されるようになったのでしょうか。イカ男はもてるコネを最大限に駆使して、事実を確かめることにしました。
調査を始めて約10か月、紆余曲折はあったものの、たしかにベトナム中部のニャチャンで水揚げされたイカのなかにスルメイカがいることを確かめました。正確にいえば、和歌山工業高等専門学校のDavin Setiamarga准教授のチームによる遺伝子解析の結果、スルメイカ(Todarodes pacificus)と同定できる個体が複数見つかったのです。これらはニャチャン沖から南沙諸島の海域で混獲されたもので、ごく少数でした。外套背長約12㎝で、すでに成熟。日本周辺でみられる成熟したスルメイカは少なくとも30㎝近くあるので驚きかもしれませんが、温暖な海域に生息するイカ類は同種であれば、小型でも成熟する傾向があります。イカ男はケンサキイカでこのことをよく知っていたので、むしろ納得しました。
もしこのスルメイカがたくさんとれたとしても、小型なので漁獲量は大した数字にはなりません。では、ベトナムのイカ類漁獲量を増加させたイカは何なのか? つまり、スルメイカを混獲した漁船が主に狙った魚種は何だったのか? どうやらそれは外洋性のトビイカ(Sthenoteuthis oualaniensis)だったようです。少し前まで、ベトナムのイカ漁は沿岸での集魚灯を利用した小規模なものでしたが、近年は大型化して沖合まで進出しています。ただ、トビイカは肉厚で硬いので、やわらかくて甘いヤリイカ類になれたベトナム人の口には合わず、地元では「悪魔のイカ」と呼ばれていて、もっぱら加工品の材料に使われるそうです。なので、水揚げされたトビイカは一般流通されず、そのまま加工業者に買い取られます。トビイカもスルメイカと同じアカイカ科に属し、アルゼンチンマツイカほどにはないにせよ見た目が似ているので、ウィキペディアの情報は誰かが間違ったのかもしれません。
トビイカ
件の小型成熟スルメイカは、近年では少数ながらときどき市場に出回ることがあるようです。少なくとも5年くらい前には見なかったということなので、スルメイカが近年南シナ海に広がった可能性があります。ただ、もともと南シナ海に生息していたのが、ベトナムの沖合イカ漁業が始まったために混獲されて見つかっただけかもしれません。今となっては確かめる術はないようにおもいます。イカ男にできることは、このスルメイカがどこで生まれたかを調べることです。従来の分布域から考えると、台湾海峡から南シナ海北部の大陸棚ということになりますが、どうでしょうか。
北海道周辺や日本海のスルメイカが減少して、南シナ海でスルメイカが見つかるとは、温暖化が進むなか、ちょっと不思議な気がしますが、生物や海の世界はきっと複雑なのでしょう。興味は尽きないです。