15. カント すごい!

15年近く前のこと、イカ男は日本大学通信教育部・文理学部哲学科で西洋哲学を学ぶことにしました。大学時代から哲学には関心があり、就職後も折に触れて考え続けてきましたが、そろそろ体系的に学び直し、自分なりの考えをきちんと形にしてみたいと思ったのです。ちょうどその頃、ケンサキイカの移動に関する研究にも取り組んでいて、「科学における仮説とは何なのか?」「私たちは世界をどう認識しているのか?」という問題にも、真剣に向き合いたいという気持ちがありました。

入学後、研究テーマについて指導教官と面談したとき、「理系ならカントをやりなさい。カントは近代科学の先駆だよ」と言われました。正直なところ、イカ男にとってイマニュエル・カントは“道徳哲学の人”くらいの印象で、まさか科学につながるとは思っていませんでした。しかし調べてみると、カントはもともと自然科学者で、地理学や地震研究にも携わり、さらにニュートンの『プリンキピア』を意識して『純粋理性批判』を書いた人物だと知り、「それなら挑戦してみよう」と思うようになりました。

ところが、この『純粋理性批判』が本当に手強い。複数の訳本や入門書を読み比べても簡単には理解できません。ドイツ語の原文は1文が異常に長く、関係節だらけ。それを日本語に訳すと主語や述語が遠く離れてしまい、意味構造がとてもつかみにくいのです。英語版やドイツ語版も参照しながら、文の構造は何とか見えてきましたが、思想そのものの難しさはやはり別格でした。

それでも、休日などにじっくり考えて読み進めるうちに、少しずつカントの驚くべき思考の軌跡が見えてきました。なかでも印象的だったのが、彼自身がコペルニクス的転回と呼んだ発想です。普通に考えれば、「まず客観的な世界があり、それをいかに正確に主観が認識できるか」が問題になります。しかしカントは、「主観の側の認識構造こそが、私たちが経験する“客観世界”を形づくっているのだ」と主張します。すでにフッサールの現象学を少し学んでいたので似た考え方には触れていましたが、それを近代哲学の段階で徹底して論じたのがカントだったという事実には、やはり強い驚きを覚えました。しかも、もともと自然科学の精神を持っていたカント自身が、それまでの科学的世界観を根本から問い直していたことにも、深い感銘を受けました。

残念ながら、指導教官はイカ男が卒論を提出する前にご病気で亡くなられました。そのため、「なぜカントが近代科学の先駆なのか」という核心について、直接議論を深める機会は失われてしまいました。しかし、それでも自分なりに考え続ける中で、一つの理解にたどり着きました。それは、科学における仮説とは単なる“現実を説明する道具”ではなく、「主観の認識枠組みそのもの」なのではないか、ということです。

仮説が支持され、多くの研究者や社会に受け入れられれば、人々の世界の見え方は書き換えられます。すると、それまで「動かしがたい客観」だと思われていたものですら変容し、新たな“客観”が成立していく。客観とはただ「そこにあるもの」ではなく、人間の認識構造と切り離せないのではないか――そう考えるようになりました。

それ以来、イカ男は研究においても、必要と感じれば大胆な仮説を恐れず提示するようになりました。さらに「世界をどう理解するか」という問題は、単なる学問の一分野に限られた話ではなく、人間の知性そのものに関わるテーマです。西洋哲学の流れを振り返ると、そのことがよく分かります。

デカルトなどの大陸合理論は、人間が生まれながらにもつ理性こそが知識の源泉であると考え、一方ロックなどのイギリス経験論は、人間の心は最初は白紙であり、すべての知識は経験から得られると主張。そして18世紀後半、カントが登場し、「知識は経験から始まる。しかし、経験だけから生じるのではない。理性がそれを形づくるのだ」と言いました。つまり、経験(感覚世界)と理性(思考構造)の両方が知識をつくるという統合的な考え方です。これは現代の科学の姿そのものですね。科学は、実験や観測という「経験」だけでなく、それを理解するためのモデルや仮説という「理性」を常に必要とします。

なるほど、やはりカントは近代科学の先駆でした。

  • 『現象学入門』竹田青嗣 NHKブックス 1989年

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