3. 平衡石に残されたLinglingの爪痕
朝鮮半島の南部沿岸には、一年を通して黄海からの海水が済州海峡を経由して流れ込んでいます。黄海は朝鮮半島西側に広がる浅い海で、冬は水温が低く、夏は逆に高温になりやすいという特徴があります。そのため、1月以降は黄海から冷たい海水が流入し、朝鮮半島南部沿岸の水温は次第に低下していきます。

黄海と済州海峡周辺(2026年1月1日;水深1m;DREAMS_M)
しかし4月頃になると状況が変わります。東シナ海の縁辺部を北上して対馬海峡に至る暖流の勢力が回復し、済州島の南側から対馬海峡の西水道付近まで広がるようになります。このため、春以降は水温が再び上昇し始めます。
さらに夏が進み7月頃になると、海の表層では水温上昇が続く一方で、底層の水温はほとんど上がらなくなります。これは、長江(揚子江)から流れ出た塩分の低い海水が対馬海峡付近まで到達することが原因の一つだと考えられています。この海水は軽くて暖かいため表面に広がりやすく、下層の冷たい海水と混ざりにくくなります。その結果、上が暖かく下が冷たいという強い躍層構造が発達します。
例年であれば、この構造は9月頃から徐々に弱まり、上層と下層の海水がゆっくりと混合していきます。そして11月頃には、水深による温度差がほとんどない状態に落ち着きます。この時期の水温変化は、通常はなだらかに進みます。
ところが2019年は、こうしたパターンとは大きく異なっていました。観測データを見ると、成層が非常に短い期間で一気に崩れていることが分かります。その理由を探る手がかりは、水深1mの塩分変化にありました。2019年9月上旬に、表層の塩分が大きく低下していたのです。この海域は陸地に近いため、大量の雨水が一気に流れ込んだ可能性が考えられます。

済州海峡(126E、34N)における水深1mの塩分と水温(a)、水深81mの水温(b)(DREAMS_M)
実際に調べてみると、2019年9月7日未明に非常に強い台風13号(Lingling)が済州海峡西部を北上通過していました。この台風は宮古島の空港で瞬間最大風速61.2m/sを記録するなど、かなり勢力が強く、韓国や北朝鮮でも大きな被害が出たとされています。この台風による暴風によって海水が激しくかき混ぜられ、本来は時間をかけて進むはずの水温躍層の崩壊が、短期間で一気に起こったと考えられます。

2019年台風13号(Lingling)(気象庁)
その結果、ヤリイカが生息していた底層付近の水温が、短い時間で急上昇した可能性があり1mmます。一般にイカ類は水温変化に敏感な生物だとされていますが、今回のケースではヤリイカは逃げ出すことなく、この急激な環境変化を受け入れていたと考えられます。これは、ヤリイカが意外に広い水温範囲に適応できる生物であることを示しているのかもしれません。あるいは、非常に底生性が強く、あまり泳ぎ回らない生活様式を持っている可能性も考えられます。
今回、ヤリイカの平衡石に記録されていた Sr/Ca 比の大きな変化は、単なる季節変化ではなく、2019 年 9 月に済州海峡を通過した台風 Lingling による海水攪拌が原因である可能性が高いことが分かりました。台風による強い風と波が、それまで強く成層していた海を一気にかき混ぜ、底層の水温を短期間で上昇させた結果、その変化が平衡石という“生体の記録媒体”に刻み込まれたのです。言い換えれば、平衡石は台風が通り過ぎた痕跡を、静かに、しかし確かに残していたことになります。このことは、ヤリイカが急激な環境変化に対して意外なほどの耐性を持っている可能性を示すと同時に、台風のような一過性の自然現象が、生物の生活史にまで影響を及ぼしていることを教えてくれました。ほんの1mm程度の平衡石から、海の物理現象と生きものの生態がつながって見えてくるのは、とても面白いですね。

