17. 星空の向こうの国

ここまでの2回のブログを踏まえると、カントの哲学には明と暗の両面があるように思えてきます。そして興味深いのは、そのどちらを強く感じ取るかが、読者によってかなり違うことです。実際、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』、あるいは『永久平和のために』のどれに惹かれるかによって、カントという思想家の姿は大きく変わって見えるでしょう。理性の厳密さに魅了されるのか、それとも道徳や政治への展開に希望を見るのか――その選択自体が、読者自身の立ち位置を映し出しているのかもしれません。ちなみにイカ男の場合は、言うまでもなく『純粋理性批判』です。なので、ここではカントの思想全体を礼賛するというよりも、道徳哲学・倫理学としての側面についてはいくらか距離を取り、批判的に書かざるを得ません。それはカントの試みが浅薄だったからではなく、むしろ、あまりにも誠実で、あまりにも理性を重視しすぎたがゆえに、現実の人間や社会とのあいだに緊張を生んでしまったからです。以下では、そこに焦点を絞り、カント倫理が持つ魅力と同時に、避けがたい問題点について考えていきたいと思います。

カントの倫理学では、行為が道徳的に正しいかどうかは、義務から行われたかどうかで判断されます。同情や愛情、思いやりといった感情は、人としては大切なものですが、道徳の土台としては原理的に脇へ置かれてしまいます。そのため、「どんな事情があっても嘘は許されない」「例外なく義務が優先される」といった結論が出やすくなります。理屈としては筋が通っていますが、現実の感覚からすると、どこか空々しく、人間らしさに欠けているように感じられることがあります。

また、カントは行為の善悪を「その行為の格率が、社会の全員に当てはまっても成り立つかどうか」で判断しようとしました。一見すると公平で理性的な方法に見えますが、この考え方はある種の危険をはらんでいます。なぜなら、問題とされるのが行為だけではなく、行為とその目的がセットになった格率だからです。そのため、同じ行動であっても、格率の表現を変えれば、社会全体のルールとして正当化できてしまう場合があります。結果として、ある個人や集団の感情や価値観によってあらかじめ「良い」と判断されたものが、理性の言葉によって普遍的な道徳のように装われ、社会全体のルールへと押し広げられてしまう危険が生じるのです。目的に適合しているという理由だけで、過激な行為までもが「なされるべきもの」に見えてしまう可能性がある点に、カント倫理の抱える問題があると言えるでしょう。

さらに言えば、カントの道徳哲学が想定している人間像は、かなり抽象的です。そこに描かれているのは、家族や友人、社会的な立場から切り離された、純粋に理性的な個人です。しかし現実の私たちは、常に人との関係の中で生きています。親としての責任、友人としての思い、社会の一員としての役割は、道徳を考えるうえで本来きわめて重要なはずです。それにもかかわらず、カント倫理では「誰に対して行うのか」という具体的な関係性が、あまり重視されません。この点に、多くの人が違和感を覚えてきました。自由や平等が強調されるあまり、人と人との結びつきが相対化され、場合によっては脆くなってしまう――行き過ぎたグローバリズムやリベラリズム、ジェンダーフリーや夫婦別姓をめぐる議論の一部には、そうした問題点が表れているように感じられます。

こうした点を総合すると、最も大きな問題として浮かび上がるのは、理性への比重が強くなりすぎてしまったことです。カントは本来、人間の自由と尊厳を守るために理性を道徳の基礎に据えました。しかし、理性が唯一の正しさの基準となったとき、それに合わない考え方や生き方は、非合理で誤ったものとして切り捨てられやすくなります。道徳は本来、話し合いや折り合いを通じて形づくられるべきものですが、それが「正しさ」を根拠に人を裁く装置へと変わってしまう危険があるのです。コロナ禍において見られた、いわゆる「ポリコレ」をめぐる過剰な同調圧力は、その一つの例として挙げられるかもしれません。

この意味で、カントの道徳哲学は、近代において道徳を理性で支えようとした壮大な試みであると同時に、理性には限界があることもはっきりと示してしまった思想だと言えます。「星空と道徳法則」に感じるあの崇高な感動は、実は、近代人が理性に背負わせてしまった重さそのものでもあったのです。

ただし、実のところカント自身は、こうした結末に行き着くことを最初から分かっていたようにも思えます。なぜなら彼は、『純粋理性批判』の第1版の序文の冒頭でこのように述べているからです。

 

人間の理性、それはある種の認識において特異な運命をかかえている。その運命とは、理性が退けることもできず、それでいて答えることもできないような問題にわずらわされるということである。退けられないわけはと言えば、そのような問題が、理性自身の本性によって突きつけられているからである。答えられないわけはと言えば、そのような問題が、人間理性能力をことごとく超えているからである。

 

理性が問いを生み出してしまうのに、その問いは人間の理性の力を超えている――カントはそのことを、はじめから自覚していました。言い換えれば、カントの哲学は、最初から「勝てない戦い」だと分かったうえで始められていたのです。理性は問いを立ててしまう。しかし、その問いに最後まで答えることはできない。その運命を知りながら、それでもなお理性を使い切ろうとした。カントの哲学は、そうした覚悟に支えられた思想だったのではないでしょうか。

だからこそ、最後に「星空と道徳法則」という、どこか救われるような言葉が置かれていることは、少し不思議にも感じられます。まるで、星空の向こうに我々が目指すべき理想的の国があるかのような言いようです。理性の限界を誰よりもよく知っていたはずの哲学者が、なぜ理性の尊厳を讃えるような形で締めくくったのか。そこには、理性を最後まで信じようとした近代人としての誠実さと同時に、読む人に少しだけ希望を残してしまう危うさもあるように思えます。そういう意味で、あの結語はとても美しく、そして少しだけ罪作りだなあとイカ男には切なく感じられます。

  • 『純粋理性批判〔上〕』 イマヌエル・カント (著)、石川文康 (翻訳) 株式会社筑摩書房 2014

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