4. 移動経路の「開通」

対馬東水道あたりの海域では、春から夏の終わりにかけて、大小さまざまなサイズのケンサキイカが獲れます。特に、梅雨時期までとれるオスの個体はパラソルのように細長くきれいな形をしていて、まさに剣先イカです。イカ男は6月に漁獲されたこのタイプのケンサキイカ15個体の平衡石を使って、移動経路の推定に挑みました。まず、平衡石の核部から縁辺部に向かって線状にSr/Ca比を調べたところ、経験水温の変化はおおむね山型のグラフになりました。

平均経験水温差(±標準偏差)の変化(Yamaguchi et al. 2015)

この横軸に輪紋から分かる日付を加えると、経験水温の山の頂上付近はだいたい2月頃です。漁獲された海域の水温は約18℃だったので、サンプルに使ったイカは2月頃に約20℃の海域を泳いでいたことになります。2月は水温が最も下がる時期なので、対馬海峡周辺ではありません。気象庁のHPで調べたところ、九州からいちばん近くで、20℃以上の水温がある海域は、黒潮の近くでした。

50m水深の水温分布図(気象庁HP)

たとえば、奄美大島の西方海域からは、対馬東水道まで黒潮の一部が流れて行きます。その距離を約800kmとすると、イカは平均0.1m/秒で移動してきたことになります。この移動速度は、イカが昼間は海底に定位していたと考えれば、海流とおおよそ整合的です。ではイカは黒潮にのってはるか彼方からやって来たのでしょうか。ケンサキイカは、卵を腸詰めにしたような卵塊を海底に産み付けて子孫を残します。そして、卵のふ化には約15℃以上の水温が必要です。したがって、サンプルに使ったイカがふ化した場所は太平洋の深海ではなく、東シナ海の大陸棚と考えるのが妥当です。とすれば、推定ふ化月である10月からの4か月間も同じように大陸棚縁辺部にそって北上してきたことになり、東シナ海南部が最も有力な候補と考えられます。そこで、インターネットで論文を検索したところ、国立台湾海洋大学による、台湾北部沖ではケンサキイカが産卵・ふ化し、黒潮に沿って北上しているという研究報告を見つけました(Wang et al. 2008)。

東シナ海南部におけるケンサキイカの分布(Wang et al. 2008)

その時、まるで両側から掘削を始めたトンネル工事が山の真ん中でつながったような感動を受けました。さらに、台湾北部では黒潮によってしばしば湧昇流が発生します。湧昇流とは、深海から湧き上がってくる栄養塩が豊富な冷水塊です。海外の論文から、湧昇流はヤリイカの仲間が繁殖行動を始める際の引き金になることを知っていたイカ男は、ついにケンサキイカの故郷を突き止めたと確信しました。

水深50mの水温分布図と海流図(気象庁HP)

イカ男が幸運だったのは、平衡石の分析に対して「佐賀県工業技術センター」の方々が全面的に協力してくださったこと、すでに気象庁のHP「海洋の健康診断表」を使って誰でも任意の月日の海況情報を入手できるようになっていたこともあります。つまり、Sr/Ca比の分析と水温分布情報の入手をほぼ無制限に行えたこと、それを自由に公表できたことがイカ男の研究を初期の段階からスムーズに進めさせてくれました。特に大きなプロジェクトだったわけでもないこの研究がうまくいったのは、このような人と時代に関する複数の幸運に恵まれたからでした。

  • Yamaguchi T, Kawakami Y, Matsuyama M. Migratory routes of the swordtip squid Uroteuthis edulis inferred from statolith analysis. Aquatic Biology, 24, 53–60, 2015. https://doi.org/10.3354/ab00635
  • Wang K, Liao C, Lee K. Population and maturation dynamics of the swordtip squid (Photololigo edulis) in the southern East China Sea. Fisheries Research, 90, 178–186, 2008.
  • 気象庁HP「海洋の健康診断表」 https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaiyou/shindan/index.html

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