7. やっぱり愛は勝つ
テレビの影響か、大学の頃は友人と明け方までよく議論をしていました。議題は多岐におよびましたが、人間はなぜ戦争をするのかというのもその1つ。人間は愛情もあり理性もあるのに、数千年もの間なぜ争いと殺戮をくりかえすのか。毎年今の時期になると(8月中旬)、大人になっても考え込まざるをえません。
こんな思考実験をしたことがあります。ある地域に二つの民族集団があって、ほぼ同じ人口規模、同程度の軍事力をもっていたとします。その地方で深刻な食料不足が発生し、冬を乗り切る食料がなんとか1つの集団分しか残っていません。もし神様がいたら、どちらの民族も大切ですから、2つの集団のそれぞれ半分ずつ(それも若者を優先して)を助けたいと思うかもしれません。しかし、集団内では仲間の半分を見殺しにするなど同意できないでしょう。たいていは一致団結して、すべての食料を獲得しようと戦いを始めるはずです。軍事力が同程度であれば消耗戦となり、相手に対する憎しみが増加し、戦っている本来の目的を忘れて徹底的な殺戮を行うかもしれません。そして、どちらかが食料を独り占めすることになるでしょう。その生き残る集団は、おそらく他の集団よりも集団内の結束力、つまり愛が強かった可能性は極めて高いと考えられます。もともと人間が他の生物に比べて共同生活に適した性質をもっていたことに加えて、このような争いを生き抜く文化や慣習をもった集団がいまに至る文明を築いたと考えれば、現在の我々が「愛」という概念を重要視するもの理解できます。つまり、愛があるのに戦争するのではなく、愛があるからこそ戦争をする、しかも相手をせん滅することができる、ということになります。
実際はこんな単純な話ではないでしょうから、若気の至りと読み流してください。ただ、その時期は日高敏隆先生の動物行動学を勉強していたので、人間と動物との認識の違いなどを考えていたのでした。野生に住む動物は、もちろん厳しい生存競争にさらされ、「食う―食われる」の食物連鎖に組み込まれています。しかし、サバンナでスコールのとき、大きな木の下でライオンやゾウ、キリンなどがおとなしく雨宿りしている映像を見たことがあります。空腹でなければ、獲物を得たとしても保存しておく冷蔵庫もないので、体力を消耗するだけですね。野生の動物でも食欲が満たされている場合、不必要な殺生をすることはないようです。
逆に、どの種の生物も、仲間のすべてが生き残ることを期待しているのではなく、あらかじめ仲間のほとんどは食べられることを想定し、そのかわり子孫を残すために必要な個体は生き残ることを保証してもらっているようにもみえます。つまり、死ぬときは食べられるときに限られるという極めて合理的な死生観です。このおきてをすべての種が守っていれば、多くの種は絶滅を免れ、子孫を存続させることができそうです。
比較的短期間の小さな生態系でもこのような死生観が反映されているとイカ男は考えます。たとえば、湧昇流域で発生した生態系(植物・動物プランクトンやイカ・魚の子どもなど)は海流とともに一緒に移動します。空腹を感じてから餌生物を探しに行くようでは、見つける前に体力が尽きてしまうでしょう。すぐ近くに餌生物にいる環境の方がいいです。しかし、そのような環境には捕食者もすぐ近くにいることになります。その結果、それぞれの種は食べられた分だけ減少しますが、生き残った個体は成長できます。そして、ごく少ない数にはなりますが、産卵して子孫を残すことができるのです。もちろん、そのような形で生態系に組み込まれた種が結果的に生き残ってきたのでしょう。