2. 成熟と産卵の大胆仮説
ホタルイカは世界中で日本列島周辺にだけ生息が知られ、太平洋側でも確認されてはいますが、ここでは列島西側、つまり日本海での分布にかぎって考えます。土屋光太郎博士の論文(1993)によると、確実に標本が獲れた場所は韓国東岸が最も西で、おおまかな分布域は竹島周辺から南と東へと広がっています。対馬海盆が空白になっていますが、近年鬱陵島でも漁獲されているそうなので、これは調査が進んでいなかったことが原因で、実際は対馬海盆にも生息していると考えられます。また林清志博士によると、日本海におけるホタルイカの産卵場は、富山湾はもちろん、山陰北側の陸棚と対馬海盆や隠岐舟状海盆が接する帯状の海域が該当するようです。さらにホタルイカの漁獲シーズンが毎年1月頃に山陰沿岸から始まり、富山湾では3月に解禁を迎え、大きさも徐々に増すということから、対馬暖流の第一分枝で陸棚上を北へ運ばれると考えるべきでしょう。とすると、やはりホタルイカは対馬海盆にも生息し、その一部が日本沿岸で漁獲されているはずです。イカ男はこのような推測のもと、前のブログで紹介したように、まず山陰沿岸で漁獲されたホタルイカを調べたのです。
対馬海盆に生息するホタルイカがいつどこでふ化したかは後で議論するとして、とりあえず対馬海盆で夏から冬まで過ごしたとすると、日本海沿岸における冬から春の成熟と産卵の過程をうまく説明できるのです。今回はこの成熟・産卵の仮説をご紹介します。と、その前に、ホタルイカの好適水温条件を推定する必要がありました。魚津水族館では飼育水温を6~13℃にしているようですが、0~20℃でもすぐには死なないとの事。なのでここでは、3~16℃の海域または水深帯を移動するということにします。
10月の対馬海盆の鉛直水温断面を見てみましょう(上図)。対馬海盆の南部海域における3~16℃の水深帯はおおむね100~180mにあたり、ホタルイカはこの範囲を日周鉛直運動していると想像できます。つまり、日中は水深180m近くまで潜り、夜間は100m付近まで上昇して対馬海盆で発生した大量のプランクトンを食べて成長するわけです。対馬海盆とその周辺では暖水渦と冷水渦が定常的に発生し(最下図)、湧昇流が栄養豊富な深層水を表層に供給しているからです。
対馬海盆海域の鉛直水温断面図(2022年12月1日、131E、34-40N、DREAMS_M)
ところが、12月になっても対馬海盆は16℃以上の水温層に上から蓋をかぶされた状態なので、成長してもホタルイカは海盆から出ることができません。さらに日中深く潜るとそこには3℃以下の水温層があります。そうなると厄介なことがでてきます。実は、成熟して産卵によって生み出された卵は泰憲、13℃では約1週間後にふ化するけれど、約6℃以下では発生が止まってしまうと言われているからです。つまり、3℃以下の環境が存在する海域で成熟・産卵するのはホタルイカにとって大きなリスクがあります。産卵された卵が常に表層にあればいいですが、もし沈降してしまったら、発生が止まり死滅してしまうでしょう。したがって、このような環境下では成熟しないとイカ男は考えます。なんらかの内的な制御システムによって成熟よりも成長を選択するのではないでしょうか。実際にケンサキイカでは、秋に山陰沿岸で漁獲される個体はブドウイカとよばれ、日齢が300日を超えて十分成長しているのにほぼ全て未成熟です。山陰沖の水温はケンサキイカの成熟にとって低すぎるからです。一方、初夏から長崎県の茂木湾で漁獲される個体は外套背長10㎝程度で成熟しています。浅い湾内では底層でも速やかに水温が上昇するからです。ケンサキイカは海底に卵塊を産み付けるので、特に水温に敏感なのでしょう。ホタルイカと同様に海中に卵塊を放出するスルメイカも、桜井泰憲博士らによる飼育試験の結果、卵発生とふ化後の幼生の生残適水温は15~23℃であると判定され、さらにメスの生殖器官が発達しはじめる水温も15℃であることが分かっています。そして、実際に産卵を開始するには水温が安定的に18℃以上となる大陸棚斜面か大陸棚が必要だということです。
対馬海盆海域の鉛直水温断面図(2023年1月1日、131E、34-40N、DREAMS_M)
年を越して1月になると水温の鉛直混合が進み、山陰沖と沿岸海域の水温は16℃以下になるため、ホタルイカは陸棚斜面から南の沿岸部へ移動できるようになります。この海域は底層まで暖かい海水ですので、まずオスが急速に成熟し、精子が入ったカプセル(精莢)をメスに渡します。ここでオスの役目は終わります。メスは用心深く徐々に成熟をすすめ産卵に備えますが、その間に対馬暖流第一分枝(沿岸流)によって陸棚上を北東へ、若狭湾や能登半島へ流されるのだとイカ男は考えます。
これからは、この仮説にどの程度の妥当性があるかを検証するために、粒子追跡実験や平衡石の分析を行いたいと思います。道のりは険しくはるかに遠いですが、皆さん気長にお待ちください。
- Kotaro Tsuchiya (1993) Distribution and Zoogeography of the Family Enoploteuthidae in the Northwest Pacific. Rece. Adv. in Fsihs. Biol.
- 稲村修『ほたるいかのはなし』(1994) 魚津市教育委員会
- 奥谷喬司編『ホタルイカの素顔』(2000)東海大学出版
- 桜井泰憲『スルメイカの繁殖生態と気候変化に応答する資源変動』(2014)「水産振興」第559号 一般財団法人東京水産振興会
“2. 成熟と産卵の大胆仮説” に対して2件のコメントがあります。