10. 多元宇宙論からスルメイカを考える

我々が生きている宇宙を英語でuniverseと言います。これはラテン語のuni-(1つに)と -verse(回る)を由来とし、universus(全体の、1つになった)から派生したそうです(「大辞泉」小学館)。一方、最近の理論物理学では、マルチバース(multiverse)理論と呼ばれる、複数の宇宙の存在を仮定した理論が注目されています。我々の宇宙の外に別の宇宙があるというのは、にわかに信じがたい話ですが、野村泰紀教授(カリフォルニア大学バークレー校)の著書を読んでいるうちに、なるほどなあと思ったので、今回紹介させていただきます。

 

イカ男は以前お話ししたとおり隠れ文系だったので、野村教授の理論を正しく理解しているかどうかは甚だ心もとないですが、確実に納得できた部分があります。それは、我々が生きている宇宙は我々にとってあまりにうまくできている、ということです。理論物理学が進歩すればするほど、この宇宙が存在するための条件はありえないほど小さい確率でしか起こらないことが明らかになりました。なぜ、これほどまでに都合よくできているのか。神が起こした奇跡なのか。

 

この謎に解決の糸口をつけたのが、スティーヴン・ワインバーグというノーベル物理学賞受賞学者でした。彼は「人間原理」という考えに着目し、無数に異なる宇宙の存在を仮定することを提案します。宇宙が無数に存在するのであれば、その中に一つくらいは我々の誕生と生存に都合がいい宇宙があってもおかしくない、というのです。まさに目から鱗の、アハ体験でした。とはいえ、実は同じような話が我々の住む地球でもありましたね。惑星系のハビタブルゾーン(habitable zone)のことです。これは一般的に、恒星の周辺において十分な大気圧がある環境下で惑星の表面に液体の水が存在できる範囲をいい、地球は太陽から近からず遠からずのまさに絶妙な距離にあります。この奇跡が地球上における生命の誕生と文明の繁栄を可能にしました。もちろんこれは神のご加護があったからではなく、天の川銀河や他の銀河に無数の惑星系が存在し、たまたま太陽系の第3惑星がその条件を満たしていたことによるものです。今では天文学者が太陽系外にあるハビタブルゾーンの地球型惑星を探査していますね。いつか見つかることがあるのでしょうか。

 

さて、スティーヴン・ワインバーグが着目した「人間原理」という考えは、ウイキペディアによると、「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という理屈だそうです。つまり、人間に適していない宇宙にはそもそも人間は存在しえないから、この宇宙が人間に適しているのは当然だ、ということです。適切なたとえかどうか分かりませんが、たとえば10万人でじゃんけん大会をして最後まで勝ち残った人にとっては、あとで思い返すと奇跡の20連勝だったはずです。まちがいなく、彼(彼女)にとってその日、世界は自分だけのために存在したことでしょう。

 

とまあ宇宙の話はこれくらいにして、ここからは「人間原理」という考えを我田引水、牽強付会的に、日本周辺におけるイカの存在に当てはめてみることにします。イカ男は5年ほど前それまでに発表したケンサキイカに関わる論文5本をまとめて、九州大学から論文博士の学位を得ました。その内容を長く水産研究に携わってこられた先輩にお伝えしたところ、いくらなんでも、風まかせ波まかせってことはないだろう、と腑に落ちない様子。イカ男のケンサキイカの移動に関する研究は、イカは海流によって移動するということを前提にしていたからでした。一方、先輩は、イカは自らの意思(または本能)によって日本の漁場に来遊しているはず。海流まかせだったら、海に拡散してしまって大量に漁獲されるわけがない、との考えでした。真実はイカに訊いてみなければ分からないのですが、少なくとも2015年頃以前のように海況が安定していれば、イカ男の考えは劣勢だったでしょう。しかし、近年漁場が大きく変化し、今では青森や山形、仙台湾や三陸沿岸でも漁獲されるようになりました。これは、ケンサキイカを運んでいる海流が変化したとすれば、うまく説明できます。

 

この経験で調子に乗ったイカ男は、この手法をスルメイカにも適用しました。現在でも多くの研究者はスルメイカが産卵場を目指して自力で日本列島を北から南へ戻ると考えています。それを、海流の変化だけで説明しようとする試みです。けっこう無謀な挑戦におもえたのですが、イカ男のまわりには日本周辺の海流を知る優秀な研究者が多数いらっしゃいました。熱いディスカッションをして、実験を繰り返すうちに、スルメイカが海流に流されても、うまい具合に昼と夜に水深を変えることによって、成熟時には南へ下れることが分かってきました。もちろん海流は一方向へ流れるだけではなく、場所によっては渦をつくったり、その渦の位置が変化したりします。これらを組み合わせると、スルメイカの一生がとてもうまく説明でき、しかも豊漁や不漁の原因となる長期的な資源量の増減を理解することも可能になりました。イカ男から見ると、スルメイカの生態は我々日本人にとってあまりにうまくできていてTodarodesu pacificusとラテン語で名づけられた生物は、まさに日本でスルメの材料になるために生存しているかのようでした。実際に英語ではJapanese common/flying squidと呼ばれています。

 

しかし現実は、偶然そのような海況が日本周辺に発生していただけだったのです。最近、おそらく地球規模の気候変化によって海況が変化し、スルメイカは日本列島に近づけなくなっています。けっしてスルメイカが日本を嫌いになったわけではありません。本当は日本に接近したほうが成熟・産卵・ふ化には有利であることにかわりはありません。日本人にとっても、スルメイカにとっても不幸な状況になってしまいました。

 

水産庁によると、日本周辺水域には海生ほ乳類が50種、海水魚が約3,700種生息しているそうです。そのなかの1種であるスルメイカは日本周辺の海況にすこぶるうまく適応し、安定的に再生産してほぼ全国で漁獲されてきました。一方、その他の多くの種は生物学的に生息していても、水産業の漁獲対象となるほどの数ではありません。なんらかの制限要因があり、それ以上に増えることができないのでしょう。生態系は複雑系なので、増殖を制限している要因を現段階で特定することは不可能だとおもいます。しかし、いつの日か何らかの環境変化でその制限が解除され、ある種の生物が爆発的に増加する可能性は十分にあります。ただし、その種が我々にとって有益な種なのか有害な種なのかは分かりませんが。

 

いずれにしても奇跡が起こる背景には、奇跡とはならなかった無数の可能性が存在していたし、また次の軌跡を起こす可能性がいまも潜在的に存在しているということです。その可能性を維持するためには生物多様性に配慮することが必要ですが、さて次に卓越するのはどのような生物種なのでしょうか。我々ホモサピエンスは高々20万年前に出現し、ほとんどの生物種にとって有害でした。このことを考えると、ちょっと怖い気もしますね。

 

  • 野村泰紀「なぜ宇宙は存在するのか」ブルーバックス 講談社 2022年

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